ある仏教徒が回心した話

 これは、ある人がイエス・キリストを信じて人生が変えられた話です。昔、その男性は瀕死の状態にありました。
 医者に行くと、レントゲンを撮られ、右肺の真ん中らへんが全部なくなっており、左肺は蜂の巣のように結核に冒されていると診断されました。また、心臓は肥大し過ぎて、適切な血液循環がなされていませんでした。医者は3カ月か、長くても4カ月の命だと言いました。その時、医者は彼にこう言いました。

 「君、がっかりしてはいけない。人生というものは、せいぜい100年までだ。君は18歳だが、生きたとしても、あと80年も過ぎれば、みな墓場行きさ。」

 その医者は彼を慰めるつもりで言ったのでしょうが、そんな理屈は、彼にとって何の慰めにもなりませんでした。
 絶望の中で彼は病院を後にし、死を覚悟して家に帰りました。
 彼は孤独のどん底を味わいました。何の希望もなかったのです。
 家族も友人も、死に行く彼をひとり置き去りにしました。

 その頃、彼は非常に忠実な仏教徒でした。必ずお寺にお参りに行き、ほとんど毎朝、ブッダに向かって祈っていました。心に平安を得るために、いろんなことをやってみました。
 しかし、死に直面して初めて、自分の心に平安がないことを知ったのです。
 自暴自棄になって、さらに一生懸命、ブッダに祈り始めました。けれども、心には何の変化もありませんでした。
 ついに絶望的な状況の中で、彼はブッダへの信仰を捨てました。そして、宇宙にいる知らない神に向かって叫び始めました。

 「神よ、この宇宙にあなたがおられるなら、私を助けてください!」

 数日後、神は使いを送られました。その使いが来た時、彼にはそれが神の使いだとは分かりませんでした。
 女子高生が聖書を持ってきて、イエス・キリストのことを彼に話し始めたのです。
 その話は、彼には全くバカげたことに思われました。彼女はキリストの処女降誕について話しましたが、彼にはそれが単なるおとぎ話のように思えたのです。それで、彼は彼女に注意を向けませんでした。
 彼女が帰って行った時、彼は思いました。「仏様、感謝します。もう彼女がここに来ないようにしてください。」

 ところが翌日、同じ時間に、また彼女はやって来ました。その次の日も、その次の日も来ました。
 それが6日以上も続き、彼女が来ると、彼は非常に疲れ、その姿を見るだけで憎らしい気持にさえなりました。
 ある日、彼は彼女に対して非常に腹を立てました。すると彼女はどうしたかというと、ひざまずいて祈り始めたのです。彼女の顔に目をやると、頬に涙が流れているのが見えました。
 数滴の涙は、雄弁な説教よりも、遥かに力強く何かを語ることがあります。彼は心に温かいものを感じ、彼女のうちにキリストの愛を見ました。彼女の愛と同情によって、彼は自分の罪を自覚しました。そこで彼はこう言いました。

 「泣くのはやめなさい。僕は君の愛と思いやりに感謝する。死ぬ前に、少なくとも君を喜ばせることはできると思う。僕は君のためにクリスチャンになるよ。」

 彼女は非常に喜び、大声で神を讃え始めました。そして、「この聖書の中には命の言葉があります。どうか読んでください」と言って、彼に聖書をくれました。これが彼の聖書との出会いでした。
 彼女は、新約聖書の『マタイの福音書』から読むように勧めてくれました。そこで、彼は聖書を読み始めました。

 聖書を読んでいく中で彼が見出したのは、哲学や宗教ではなく、イエス・キリストという一人の人格を持った神の子でした。イエスは罪人を愛しているが罪を憎み、病を憎んでいるが病人を愛し、悪魔の敵ではあるが悪霊につかれた人を愛し、助けている。聖書を読んでいく中で彼に分かったことは、イエスは人間の敵ではなく、罪と病と悪魔を滅ぼすために来られたお方であるということでした。

 彼はイエス・キリストの中にすばらしい希望を見出し始めました。キリストが十字架上で彼の身代りに死んでくださったことを読んだ時は、特にそうでした。
 彼は救われたいとどんなに思ったことでしょう。しかし、どうしてよいのか分かりませんでした。そこで、彼は叫んで言いました。

 「神よ、私は救われたいのですが、今は教会に行けません。どうしたら救われるのですか?」

 その時、小さな静かな声が聞こえてきました。「お前は仏を拝んできたのだね。今度からはイエス・キリストを拝みなさい。」             

 そこで、彼はひざまずき祈りました。「イエスさま、どうぞ私の心に入ってください。私を助けてください。あなたが私を救い、いやしてくださるなら、あなたは非常に得をすることになりますよ。」

 彼はイエス様を追い込もうとしました。こう言えば、必ず答えが来ると思ったからです。彼は真剣に祈りました。このように祈った時、何かが心の中で起こりました。心の奥深い所に、平安がくだってきて、広がり始めました。温かいものが心を覆い、恐れに打ちひしがれていた思いを静めてくれました。

 10年以上も、彼はブッダに向かって祈り、また瞑想してきました。しかし、こうした瞑想や黙想によってもたらされた安らぎといったものは、単に人間的なものに過ぎず、一時的な心の安らぎが得られるだけでした。
 しかし、彼がイエス・キリストを呼び求め、自分の救い主として信じ受け入れた時、大きな平安があふれてきて、恐れから解放されたことが分かりました。暗い思いは取り除かれ、罪意識もなくなりました。彼は自分が救われたことが分かったのです! 
 また、それだけではありません。医者から余命いくばくもないと言われた彼はこの後、完全に癒されたのです! そして彼は現在、喜びと祝福に満ちた人生を送っています。

 イエス様はこう言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
 つまり、イエス様は「天国に至る道は一つしかない。わたしこそその道にほかならない」と言われました。
 天国に至る道は、このイエス・キリストを信じる道だけであって、これ以外にはありません。他にも天国に至る道があるなら、イエス・キリストはこの地上に来る必要はなかったのです。

 天国への道は、何かの良い教えや宗教のことではありません。それは、イエス・キリストという一人の人格を持ったお方のことです。もしあなたがキリストの永遠の償いによる罪からの聖めを受け取り、天国に行きたいと願っておられるなら、次の祈りを心の底から祈ってください。この祈りを心からするならば、神はあなたの祈りに答え、あなたをその場で救ってくださいます。


 
天の父なる神様、私は自分が罪人であることを認めます。
 私の罪をゆるしてください。
 イエス様が私の罪の身代わりとなって、
 十字架にかかって死んでくださったことを信じます。
 私のすべての罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださったことを感謝します。
 イエス様、私はあなたを罪からの救い主、主としてお迎えします。
 約束どおりあなたが、私の心の中に入ってくださったことを感謝します。
 私のこれからの人生は、あなたのものです。
 イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン



 もし教会に行っておられないのでしたら、ぜひ教会にお越しください。神の御言葉は「一緒に集まることをやめたりしないで、かえって励まし合う」ように勧めています。
 薪は何本も一緒にしておけばよく燃えますが、一本だけなら、すぐに消えてしまいます。
 信仰の火も同様です。教会は神の家族であり、私たちが信仰から落ちないように守り、支える場所です。また、教会は、人生の真の目的を発見し、その目的に生きるための場所なのです。

 教会では、賛美の歌(ゴスペル)を歌う時や、聴く時が持たれます。聖書からメッセージがなされます。
 病のいやしなどのために祈る時が持たれます。
 集会後、個人的な問題や悩みについて牧師に相談したい方は相談できます。牧師に何か祈ってほしい方は祈ってもらうこともできます。
 予約や会費などは不要です。
 服装は普段着でも結構ですし、幼児や児童の同伴も結構です。
 強制されることは一切ありません。どなたでもお気軽にお越しください。



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