イエス・キリストと出会って人生が変えられた!(洗礼式で語られた救いの証です。)


皆さんおはようございます!
今日は晴れて洗礼を受けるにあたり、神様、イエス様に出会い、ここまでに至った証をしたいと思います。

自分は物心ついた頃から今まで劣等感にさいなまれて生きてきました。

うちは父と母と姉と自分の4人家族で両親は共働き、父は堅実な人。母はよく人と比べたがる人で、何かにつけ「あの人みたいに頑張りなさい」って言われていました。
姉はお店も家事も手伝いも勉強もできる、絵も書けるし歌が上手い。友達も沢山いて、人が集まってくるような、まさに才色兼備。母に姉ともよく比べられていました。

自分は姉によく嫉妬し、突っかかり激しく取っ組み合いの喧嘩をしてました。それ意外にも自分よりできる人のことを見ては嫉妬し、「どーせ自分なんか」という劣等感でますます卑屈になって成長してしまいました。

そして勉強を全然しない子で、みんなのようにと思うとやる気もしおれ、小学生で先生から落ちこぼれのレッテルを貼られ、自分は頑張れない人間だと思っていました。
見返してやりたいという気持ちと、「やりたいことも、誰かに劣っているのでやる意味がない!」という気持ち。
どうしたらいいのかわからず、さげすまれないように外面だけ真面目に見える様に取り繕ってました。

高校卒業後、専門学校や職を転々としてましたが、全て劣等感にさいなまれて挫折。お金を稼いでしっかりした社会人になって自立したくて無理して働いていました。しかしそのストレスで働いた分のお金を全部使ってしまうという浪費癖は激しいものでした。

頑張ろうとしてもどうしても劣等感に支配されてしまって、何事にも身が入らない。新しく挑戦しては失望を繰り返す日々でした。そんな惨めな自分に「根性出して頑張れ!」と応援してくれる親や友人を恨むようになってました。

失敗して否定されることが心底怖くてたまらなくなりました。その恐怖からどんな些細な約束も大きなプレッシャーになって、起き上がるのも億劫になり、そして引きこもるようになりました。

死んだ方が迷惑かけずに済むって本気で思いました。でも死にたくない。この矛盾の中で完全に人生詰んでしまった気持ちでした。これが10年くらい前までの話です。

そんな自分ではどうしようもない中、ふと「神様が本当に居るのなら社会に対して日本に対して人に対して
自分を役に立つ人間にしてください!そして元気にして下さい!」って真剣に祈っていました。自分でもこの時なぜこうしたのかハッキリとはわかりません。

それから半月くらい経ったころ、自分のことを心配して様子を伺いにきた親戚の叔母さんに『生長の家』という宗教の勧誘を受けて10日間のセミナーに渋々参加することに。そこでは基本は神道なのですが、聖書のみことばについて語られ、イエス・キリストの存在を知って、キリスト教にすごく興味が湧いたのを憶えています。

その後、身の振り方をどうしようかと考えていた時、東京に料理修行に行こうという思いが起こり、東京に住むことになりました。ですが結局この料理修業も続けることができませんでした。そんな時、統一教会の勧誘を受けました。

東京でも相変わらず仕事は続かず転々とする日々、段々と統一教会の極端な考え方が馴染めなくなってきて、家ではネットばかり。しかしそんな中にあっても神様は手を差し伸べてくれました。

インターネットで精力的に伝道されているカリスマ派の牧師さんの配信に出会わせてくれたのです。その配信を聴くようになって、引きこもってから、あまり話してこなかった両親とちゃんと向きあおうと思わされるようになりました。

そして4年前、京都に帰ってきました。ですが両親と話をしてもなにも伝わらず、それで落ち込んでしまい、精神的に不安定になっていた時、彼女と出会いました。

しかし、善くない態度で彼女と付き合ってしまったことを、とても後悔しました。

罪の意識が日増しに強くなっていた時にネット牧師さんの配信を聴く中で、罪の赦しを請うようになり、イエス様を信じるように変えられていきました。
また、配信の中でカリスマ派の教会を勧められていたので、ネットで検索して去年、京都シオン教会のことを知りました。それで2013年の6月16日の京都シオン教会の主日礼拝に出席しました。教会に行ったのは、その時が初めてでした。そこでイエス・キリストを自分の救い主として信じ受け入れるお祈りをしました。けれどもその後、しばらく教会へは行きませんでした。

しかし祈れば祈るほど、神様としっかりと繋がっていたいという想いが強くなって、近所の教会を転々としました。ですがどの教会も馴染めずにいました。

その中で離れている自分たちに対し野中牧師の姿勢が本当に献身的で、ハガキを下さって聖会に誘ってくださったり、自分の為に時間を費やして話を聴いてくださったり、聖会へ行く費用を工面してくださったり、そういったことに神様が導いてくれているんじゃないかと感じるようになりました。
なにより、礼拝に参加した時に聴いた賛美の歌が頭から離れず、ずっと歌いたい気持ちでした。

そして年始の北大路集会に参加して「あらゆるときに」と「JOY」を聴いた時にすごく癒しと満たされたのを感じました。そして教会に通うことを決めました。

教会に通うようになって不思議なことに、ギターの奉仕やデザインの奉仕など、今まで挫折してあきらめていた事が少しずつ用いられてきていることに非常に驚いています。

新約聖書、ピリピ人への手紙2章16節に、次のような御言葉があります。

このようにして、キリストの日に、
わたしは自分の走ったことがむだでなく、
労したこともむだではなかったと
誇ることができる。
』 (口語訳聖書)

と、あります。

やりたいと思っていてもできなかった事を通して奉仕ができる。本当に嬉しいばかりです。

教会に通い聖書を読んで、自分の弱さを認め、そのことを神様に感謝していく中で少しずつではありますが、
劣等感を感じずにのびのびと色々なことに取り組めています。

こうして神様に祈り始めてから日々変えられてきてること、罪深い自分をずっと導いて救い出してくださったこと、今日ここに、洗礼を受けることができることを、心から主に感謝します!

皆さん、改めて今日から兄弟姉妹としてよろしくお願いします!聴いてくださり、ありがとうございました! 

(N兄弟)